漫画家になるまでの6年間、鉄工所に勤務していた野村さん。「とにかくものづくりがしたい」と高校卒業後にプロの漫画家を目指したが、なかなか実を結ばず、「食べていけない」と就職するために広島市内の職業訓練校に通った。どの講座も倍率が高く定員がオーバーする中、唯一空きがあったのが「溶接」。そこで溶接を学び、24・25歳ごろ鉄工所へ入った。
過酷な労働環境や安全面での問題があったが、鉄工所での仕事は「単純に面白く、楽しい作業」だったと野村さん。漫画「とろける鉄工所」では、溶接など集中力の要する作業や実際に起こりうるけが、事故など、自分の経験とありえることの予測を織り交ぜて描いている。作中に登場する失明の話は、「日常にありえることの説明をしているだけ」。「明日はわが身かと思う」と当時を振り返り、表情を引き締める。
話のネタは、ベテランが多かった在職中の会話から拾ったという。「話の宝庫」のようなおじさんたちから話を聞くのが好きだった野村さんは、現場への移動中や酒の席で交わす「昔話や詳しい仕事の話」を漫画のネタ元に使うことも。漫画のモデルになった小さな町工場は在職中の工場がモデル。人数の少ない家族のような環境で、人間関係はいたってシンプル。上司から怒られても「真に受けるとしんどいが、上手く流すことで下手に気を使わなくていい」と、過酷だが充実した日々を振り返る。
溶接を舞台にした漫画を描きだしたのは、「鉄工所を辞めてから」。鉄工所で働いているときは、ビジネス漫画主人公の漫画など「クーラーが効いている部屋でいいなぁ」と労働環境に目が向いて、純粋に漫画を楽しめなかった。この経験をきっかけに、「肉体労働系の漫画を描けたら」と再び執筆を始める。
デビューのきっかけになったのは、「黒潮漫画大賞」(高知新聞社主催)に応募したショートストーリー漫画「ケーブルニヤリ」で第十八回黒潮漫画大賞の準大賞を受賞したこと。溶接の傍ら作品を描いていたが、プロ漫画家への転身を決意し千葉県へ移住した。その後応募した講談社「第5回イブニング新人賞」で奨励賞を受賞し、プロデビューのチャンスをつかむ。
「鉄工所ネタは切り札」だったが、新人賞の審査員だった伊藤理佐さんに勧められ連載を開始。漫画に溶接に関する用具や作業の工程を説明する注釈が多いのは、「結果としてそうしなければ漫画にならなかったから」。漫画では、「コント」を描きたいが、「鉄工所コント」をしようにも鉄工所がどんなところか説明する必要があったため、面白く読めるように説明を加えていった。
やっと、コントができる状況になったが、「あるある」や「うんちく」のような雑学がウケた。野村さんは「一般の人に向けた説明がウケて、それを求められるようになった」と思わず苦笑い。説明はもう必要ないと思うがニーズがあると感じている。
漫画の登場人物は広島弁で会話を交わす。広島での生活が長かった野村さんは、自身が標準語と思ってしゃべっていた言葉から方言が抜けていなかったため、「そのままで漫画を描いたら」とアドバイスを受け広島弁での連載を開始。担当編集者の川添千世さんが「物差し」となり、分からない言葉に注釈を付けている。
広島東洋カープが「大好き」な野村さんは、登場人物の名前には往年のカープ選手の名前を使うほか、旧広島市民球場で流れる応援歌から抜粋するなど「カープファンじゃなきゃ分からない」要素を随所に盛り込む。サイン会前は「ドラフトのことで頭がいっぱいだった」とカープに一喜一憂する。鉄工所勤務前、漫画家になるために東京へ誘われたが、「カープの情報が少ないことと地震が怖くて止めた」ほどだが、今は、「インターネットがあるのでタイムリーな情報も手に入れられる」と笑う。
漫画家だが「絵を描くのは苦手」。だが、漫画のネタや面白いことを考えるのが好きという野村さん。漫画では、溶接の「学歴もなく、腕だけの世界にも触れていきたい」と話す。
広島駅ビルASSE内の書店「廣文館」で行ったサイン会には約90人が来場。7割が男性で、中には溶接をしている人の姿も。「100人なんて絶対無理じゃと思った」と恐縮しながらも、サインや好きな登場人物を描き、「ありがとうございます」と丁寧にコメントを添えていった。